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霜里農場
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大自然のいのちを活かす金子美登の農場 化学肥料・農薬等に依存せず、身近な資源(バイオマス・風・太陽)を生かし、食物だけでなくエネルギーも自給して 自立する農法を目指しています。 私が完全無化学肥料、完全無農薬農業を始めたのは1971年3月、農林水産省の「農業者大学校」を卒業したときでした。在学中に私なりに考えました。卒業の前の年に減反政策が始まり、この政策で農民はやる気をなくすだろう、将来はおコメも自由化されるかもしれないと思ったものです。 ちょうど起こったイタイイタイ病、水俣病といった公害は環境が汚染され、食べ物が汚れてゆく中で起ったのです。 これらの時代背景にあって、これからの農業は「安全でおいしく、栄養価のある」ものをつくり、豊かに自給していくことではないかと感じました。 まず自分自身や家族が自給し、その延長で地域の人たちや消費者と結びついていく。 そして町単位で豊かな自給ができていくことが大事だと思いました。
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Location
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金子美登さんの霜里農場は町外れにある。小川町は東京から北西に約60キロ、秩父の山々に囲まれた丘陵地帯にあり、豊かな土地と水に恵まれ、農業のほか手漉き和紙や地酒の製造などの地場産業が盛んだ。
水田0・8ヘクタール、畑1・2ヘクタール、山林1・5ヘクタール、乳牛2頭、兎5羽、鶏100羽の小さな農場。ここで金子美登さん夫妻、両親、そして4人の研修生が汗を流す。
牛・鶏の糞尿と雑木林の落ち葉や小枝、畦の雑草、町内の豆腐屋から譲り受けたおから、シメジ農家からもらったおがくずなどをサンドイッチ状に積み上げ、4回ほど切り返すと完熟した堆肥が完成する。堆肥の中ではバクテリアが繁殖し、その成分を作物が吸収すると味や香りが増して病気や虫に強くなる。
「山が100年かけて1センチの腐葉土を作るのを、有機農業は人の手を入れて10年に縮めただけ」という。刈った稲は木で組んだ馬に掛け、天日で干す。馬の高さが均一になるように気を配る。
「こういう風景も最近見られなくなってきた。これが本当の伝統的な日本の田園風景だよ」。刈り入れ後の田んぼにはくも、蛙、かまきりなど夥しい数の生き物がいる。
「農薬により害虫を駆除しようとしてもさらに抵抗力を持つ害虫が発生する。むしろ、虫や鳥などと共存していくべきだ」と語る。
畑には60〜70種もの野菜が栽培されている。細かい品種まで区別すると無数に近い。中には筋のない白インゲンなど金子美登さんオリジナルのものもある。これは大企業の原種子の独占に対抗して、11年前から有志の農民同志で原種子の交換会を行いながら品種改良されたものだ。
金子美登さんの有機農業は、単に化学肥料や農薬を使わないというだけのものではない。 近代化、企業化、大規模化から一線を画し、あくまで大自然の営みを活かして自立した農業を行っている。
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消費者との有機的な関係
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金子美登さんが自給的有機農業を実践していこうと決意したのは1970年、農業者大学校2年生の時のこと。入学前の2年間の酪農体験を通じて乳牛の弱体化に疑問を持ち、入学後、土壌微生物学と出会って、どうも原因は飼料の農薬と化学肥料にあるらしいことを掴んでいた。
その時、国が米の減反政策を打ち出した。「米を作らなくても補助金がもらえる減反政策で、農民はやる気を失い国民は米を大切にしなくなるのではないか」。そんな思いから、乳牛を減らし、自給していた米や野菜を無農薬、無化学肥料で増やして、直接消費者に届けようと考えた。
翌年卒業。米の生産量から計算して、10軒の消費者を見つけることにした。生活排水公害に問題意識を持ち、あえて取水している川の上流の消費者にこだわった。また73年のオイルショックから石油に頼らない自給農場を目指そうと、自転車で行き来できる消費者に限った。
75年、ようやく10軒の消費者を見つけ、全国で初めての会費制自給農場がスタートした。週2回、家畜の飼料袋に米、卵、野菜、牛乳などを詰めて届け、当時月2万7千円の会費をもらうシステムだ。
始めてみると、消費者が変わってきた。いままで捨てていた野菜の切れ端まで大切に使うようになったり、週1回ずつ草取りを手伝いに来てくれるようになったりした。しかし問題も起こった。その時々で、野菜の種類や量が変わるのだが、それが八百屋の相場と比べてどうか調べる人や、手伝う分会費を安くしろという人が出てきたのだ。
「どうしてその日その日で損得を考えてしまうのか。有機農業は10年ぐらいの長い目で見てもらわねば」。金子さんは悩んだ。結局、会費制自給農場の試みは25ヵ月で挫折した。一挙に現金収入がゼロとなったわけだが、自給できるのでそれほど不安はなかった。「農業は強いな」。その時あらためて思ったという。
2ヵ月後、この失敗を踏まえてお礼制自給農場を始めた。今度は、お礼金の額を消費者の判断に任せ、さらに東京の消費者にも門戸を開放した。お礼の額や支払い方法は十人十色。届けた小麦でクッキーを焼いてくれたり、手製のエプロンをいただいたりすることもある。
金子美登さんのほうも精神的にゆとりができ、栽培技術も向上、土もどんどん肥えて収穫量も増えてきた。いまでは余った野菜を消費者30軒に「一袋野菜」として分けるまでに至っている。
こうして、金子美登さんが自らの自給の延長上に提携消費者の自給を図り、消費者は金子さんの生活を保証するという、生産者と消費者との顔が見える関係、「有機的な」人間関係を構築しようという試みは、ようやく軌道に乗ったのである。
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国際交流を育む農場
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霜里農場で有機農業の研修をするのは日本人だけではない。外国人も13年間に28ヵ国、約100名にも及ぶ。
欧米諸国では政府が国民の食の安全性を考え、有機農業などによる生産物の市場を差別化、保護し、法制化も進められている。その中にあって、金子さんの直接消費者と提携するシステムはユニークな存在だ。さらに彼らにとって、狭い面積で多種多様の作物を生産する日本農業の技術は驚きなのである。
一方、アジア・アフリカの若者にとっての有機農業は違った意味合いを持つ。肥料や機械を購入することなく食べていける農業として、直ちに役に立つ技術なのだ。
金子さんは栃木県西那須野にある「アジア学院」から毎年3〜4名の研修生を受け入れている。特にフィリピン・ネグロス島の青年との出会いから日本ネグロス・キャンペーン委員会発足に関わり、現地の訪問を含め技術指導を行っている。また、日本商社による森林伐採で問題となったマレーシアのサラワクでも同様の活動をしている。
大自然の恵みを活かす農業は民族、国境を越えて受け入れられているのだ。
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「和」は保たれるのか
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日本の食料自給率は3割を切った。金子美登さんはデンマークの研修生に笑われたという。「デンマークでは冬は少ししか太陽が出ない。それでも100パーセント近く自給している。日本は冬でもこんなに太陽が照っているのに」と。
「平和の“和”という字は、稲が十分採れて口に入ること」と説明する。日本は農的資源には恵まれている。金子美登さんの計算によると、日本の現在の耕地面積を十分に活かせば有機農法でも自給できる。しかも1日2時間の農作業で可能だという。残りの半日で各自の仕事をこなす。こうしたライフスタイルを100年後のビジョンとして描いている。
「工業は目と耳しか満足させることができない。農業で鼻から下を満足させたい。欧米でも土に人が戻りつつある。本物を求める時代、体感の時代がいずれ来ると思う」。
金子美登さんは健康食を考える上で「身土不二」(からだと土とは一体で、身近で採れる食物がからだに良いということ)が大切だという。まず、食卓に上る食物、地域の農業のあり方から考える必要があるのだ。
研修生は1年間の研修を終えると小川町の各集落に入り、農家から農地を借りて有機農業の実践を始める。最初の2年間は金子美登さんのアドバイスも必要だが、従来にない発想で懸命に働いて成功を修めている。一方、各集落の農民も刺激を受けているようだ。
「国は農家は守るが農業は育てない」。金子美登さんはそんな農業のあり方自体を、地域から変えていこうとしている。
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